2020年11月25日、サッカー界最大の英雄ディエゴ・マラドーナが天に召された。享年60歳。1986年のメキシコ・ワールドカップでその名を世界に轟(とどろ)かせたスーパースターが、当時後れを取っていた日本のサッカー界に与えた影響を振り返る。
世界中が涙に暮れたマラドーナの死。その人生は日本と深い縁があり、この国の多くの人に影響を与えた。私も例外ではない。子どもの頃にマラドーナを知らなかったら、果たしてサッカーライターになっていたか。
マラドーナが最初に世界チャンピオンとなったのは1979年、東京で行われた20歳以下の世界選手権、第2回ワールドユースだ。前年にアルゼンチンは自国開催のワールドカップで初優勝を飾るが、マラドーナは若過ぎるという理由から代表チームに選ばれなかった。このときの失意を東京で晴らしたのだ。
首都ブエノスアイレス郊外の貧民街に生まれ育ったマラドーナは、同国プロリーグ史上最年少となる15歳でデビューを飾った“黄金の少年”。その本格的な世界進出を見届けようと、アルゼンチンの人々は朝4時に起きてテレビにかじりついたという。
マラドーナはその後3度、日本のピッチに立つ。82年にはボカ・ジュニオルス、87年には南米選抜、そして88年にはナポリの一員として世界の有名クラブを招いて開催されるゼロックス・スーパーサッカーに出場。日本代表や日本サッカーリーグ選抜と戦っている。チアホーンの「ファー」という音色が鳴り響く中、スーパースターには似つかわしくない赤茶けた芝の上で数々の妙技を披露した。
マラドーナの衝撃。「まるで大人と子どもだった」
対戦相手としてマラドーナの洗礼を浴びた面々には、浦和レッズやFC東京を率いた原博実、日本代表監督として初のワールドカップを戦った岡田武史、“初代ミスター・マリノス”木村和司、独特の“居酒屋応援解説”を確立した松木安太郎、そしてブラジルから来日、国籍取得して代表を支えたラモス瑠偉など、錚々(そうそう)たる顔ぶれが並ぶ。
ベッケンバウアーやクライフといった世界的な名手との対戦経験も持つ原は、「でもインパクトはダントツでマラドーナ。まるで大人と子どもでした」と別格視する。
90年には、Jリーグ加盟を目指す静岡県のPJMフューチャーズ(現J1サガン鳥栖の前身)がマラドーナ獲得に乗り出し、一時的にサッカーファンが盛り上がる。2年後、PJMは9歳年下の弟ウーゴを獲得。「兄を呼ぶための布石」と報道されたが、ディエゴの薬物問題もあって実現しなかった。
マラドーナは97年に引退するが、5年後に出版した自伝の中で、日本人選手について語っている。古今東西100人の選手を挙げ、その評価や思い出を述べるのだが、99人目に中田英寿が登場するのだ。
自身も活躍したイタリア・セリエAでの中田の活躍は、マラドーナの耳にも入っていたのだろう。「日本人全員がこいつのようにプレーし始めたら、ぼくたちは終わりだよ」と独特の表現で称賛した。
稀代の天才が変えた日本のサッカー事情
日本に数々の足跡を残したマラドーナ。その影響をもっとも受けたのは、実際に対戦した選手たちではなく、むしろ(私を含めた)80年代の子どもたちかもしれない。
サッカーがまだ日本でメジャーではなかった当時、子どもたちの間で一番知られていた選手は大空翼だった。漫画・アニメ『キャプテン翼』の主人公。「ボールはともだち」が口癖で、そのライバルたちも奇想天外な必殺技によって子どもたちを虜(とりこ)にしたが、天才児マラドーナは漫画のようなプレーを現実のものとして見せてくれた。
その極め付きが、1986年メキシコ・ワールドカップのイングランド戦で決めた、「5人抜き」ゴール。国際サッカー連盟(FIFA)の投票によって「20世紀のベストゴール」に選ばれた5人抜きは、サッカーの魅力を伝道するこれ以上ないバイブルとなり、マラドーナのフォロワーたちが世界中に生まれた。
私もその一人であり、サッカー専門誌のグラビアを切り取って、授業で使う透明な下敷きにはさんでいた。
毎号のようにマラドーナにページを割く専門誌には、来日するたびに「ディエゴの休日」といったオフの密着記が掲載された。ふかふかの毛皮のコートに身を包み、多くの取り巻きを引き連れて金閣寺の境内を歩くロックスターのような姿は、今でも忘れられない。そして、いつも横でほほ笑む “フィアンセのクラウディア”も。マラドーナを通じて私は「フィアンセ」という言葉を知り、隙あらば仲間内で使おうとしたものだ。
表紙をめくると、いつもマラドーナのスパイクの広告が載っていて、それを見るのも好きだった。スポーツブランド「プーマ」の世界戦略の切り札として、見開き写真でドーンと登場し、傍らに「マラドーナ・スーパー」をはじめ、「マラドーナ・チャンプ」「ディエゴ・マラドーナ」「マラドーナ10」「WMマラドーナ」といった商品がずらりと並ぶ。「スーパー」は確か1万5000円。
子どもの私はとても手が出せず、代わりに一時期はやった“マラドーナ結び”をすることでマラドーナ気分にひたった。左足で蹴るときに、ペロリと舌を出すモノマネでも盛り上がった。
魔法のようなプレーはもちろん、マラドーナは愛嬌(あいきょう)のある表情やしぐさ、独特のファッションでも子どもたちを魅了し、誰もがこぞってマネしたがったのだ。
マラドーナになりたかった少年たち
モノマネはうまかったが、選手として芽が出なかった私は、大学を卒業後、サッカー専門誌で働き始めた。編集部では冬の高校選手権向けに別冊を出すたびに、各地の有望株に“四国のマラドーナ”、“九州のマラドーナ”といった異名を授けていた。
数々の後継者の中でも出世頭となったのが、サッカーどころ静岡の“テルドーナ”こと伊東輝悦(てるよし)。日本は7大会ぶりの出場となった1996年アトランタ五輪で、優勝候補ブラジルを破る“マイアミの奇跡”を起こすが、伊東はこの試合で決勝点を決めている。
マラドーナのフォロワーから大成した選手には、アトランタ五輪代表のキャプテンだった前園真聖、イタリアやスペインでプレーした天才レフティーという共通点を持つ中村俊輔、そして天皇杯優勝を置き土産に引退したばかりの川崎フロンターレ・中村憲剛などがいる。
鹿児島出身の前園は幼い頃、近所のスポーツ用品店で海外サッカーのビデオを借り、マラドーナのドリブルをひたすらマネしたそうだ。日本には数少ないドリブラーとして少年少女を熱狂させたが、その個性的なプレイスタイルはマラドーナの影響を抜きにしては語れないと振り返っている。
マラドーナになりたくて夢中で技を磨いた少年たちが選手となり、アジアでくすぶっていた日本サッカーを世界の舞台へと押し上げた。
そしてマラドーナを通じてサッカーにハマった世代が、Jリーグをピッチやスタンドから盛り上げることになる。私のようにサッカーにたずさわる仕事に就いた人も少なくない。93年に10チームで開幕したJリーグは、今や57チームに膨れ上がった。
すべてはマラドーナがいたから。私たちはマラドーナ・チルドレンなのだ。
(バナー写真=1987年のゼロックス・スーパーサッカーで、華麗なプレーを見せつけたマラドーナ 時事)
からの記事と詳細 ( マラドーナと日本人:スーパースターは日本サッカー界をも進化させた - Nippon.com )
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