2019 車いすラグビー ワールドチャレンジ 決勝より
東京2020パラリンピック注目競技の一つである車いすラグビー。3月上旬、残りわずか2ヵ国の出場枠をかけた熱戦がカナダ・ブリティッシュコロンビア州で繰り広げられた。最後の切符を手にしたのは、カナダとフランス。これにより、出場国全てが出揃い、東京までのカウントダウンが本格的に始まった。
前人未到のパラリンピック3大会制覇を目指す、現在世界ランキング1位のオーストラリアには、この競技で、“世界No1プレイヤー”として注目を浴びている、ライリー・バット選手がいる。彼のスピードとパワーを目の当たりにすると、その圧倒的な姿に一目で魅了されるだろう。一昨年の世界選手権や去年日本で開催された「車いすラグビーワールドチャレンジ2019」での取材を通じ、間違いなく「東京パラリンピック2020」の主役の一人となるバット選手の魅力を伝える。
■車いすラグビーが変えた“障害”への考え方 〜スケートボードから車いすへ〜
ライリー・バット選手が12歳の時、車いすラグビーというスポーツとの出会いは、突然やってきた。そして、その出会いが、その後の人生を大きく変えていく。
「生まれたときから障害があったけれど、幼い頃は車いすを使った事が一度もなく、車いすが好きではなかった。車いすは障害のある人のためのものだと思っていた」
四肢に欠損がある状態で生まれたバット選手はただ、友達と同じように生活がしたくて、彼らがそうしているように、どこにいくにもスケートボードで移動していた。
彼の一番の理解者で“真友”である祖父も、自宅の庭でバット選手をオートバイに乗せたり、一緒にウォータースポーツを楽しんだり、“普通の子ども時代”を過ごすことに大きな影響を与えた。
「幼少期の過ごし方が体幹の強さや安定感といったものにつながっていると思う。障害があっても結構活発な子どもだったので、いいバランス感覚などがあると思う」
そんな彼の学校に、ある日突然、ブラッド・ダバリー現オーストラリア代表ヘッドコーチがラグビー用の車いす、通称“ラグ車”を持ってやってきた。パラスポーツの普及活動の一環だった。
最初は参加を躊躇していたバット選手だったが、校庭には、ダバリーヘッドコーチと友達がラグ車をぶつけ合う音や笑い声が響いていた。その日、車いすは「体の不自由な人のためのもの」ではなく、野球にはグローブ、バレーボールにはサポーターが必要なように、車いすラグビーをする上で必要な“相棒”として使われていた。
車いすラグビーに出会った日の感情は、今も鮮明に覚えているとバット選手はいう。「車いすに飛び乗り、健常者の友達を圧倒し、最高の時間を過ごした」
その日から“相棒”は、スケートボードからラグ車へと変わり、毎日のように練習を積んだ。こうして車いすラグビー界の未来のスーパースターが誕生した。
■すい星の如く現れた車いすラグビー界の新星 〜塗り替えられる数々の歴史〜
アテネへ向かうダバリー現オーストラリア監督(左)、バット選手(右)
地元のチームに加入し、本格的な練習を始めたバット選手は、わずか1年でオーストラリア代表に選出され、13歳で国際戦デビューを果たす。
2004年9月 アテネパラリンピックよりバット選手(左)
2年後の2004年には、15歳でアテネパラリンピックに出場。車いすラグビー史上、最年少のパラリンピアンとなった。バット選手のスピードやチェアワークは多くの人から注目を集め、鮮烈のデビューを果たしたものの、結果は5位。世界の壁を目の当たりにした。
しかし、この経験がバット選手の闘争心に火をつける。「ライバルがいるからこそ、このスポーツがすごく好きだ。試され、駆り立てられ、素晴らしいライバルが追い込んでこなければ、自分が強い選手になることはない」
2008年9月 北京パラリンピックよりバット選手(右)
2008年北京パラリンピック、オーストラリアはあと一歩のところで金メダルを逃すも、パラリンピックで初となる銀メダルを手にする。
2012年9月 ロンドンパラリンピック
そして迎えた、2012年ロンドンパラリンピック決勝。強豪カナダを相手に15トライ差で圧勝(66−51)。念願の金メダルを母国に持ち帰った。
バット選手はこの試合だけで、チームの得点の半分以上である37トライを決め、予選プールを含め通算160トライを記録した。
その2年後の2014年、デンマークで行われた世界選手権。決勝は再び同じ顔合わせとなった。オーストラリアはカナダを下し(67−56)、世界チャンピオンに輝く。この試合でもバット選手のトライ数は総得点の半分を超える45。チームにとって欠かせない中心選手となっていただけでなく、車いすラグビー界で“世界最強”の選手として脚光を浴びていた。
2014年11月 ニューサウスウェールズ州スポーツ協会(NEWIS)で世界選手権などでの功績が讃えられ、男性アスリート部門など3部門を受賞
だが、バット選手は、「車いすラグビーはチームスポーツ。自分への称賛や世界一の選手という言葉は気に留めていない。チームメイトなしに世界一にはなっていない」と常々思っている。世界からの賞賛も、彼にとってはチームの功績なのだ。
「オーストラリアはワンチームだということ。ともに戦い、みんなが友達で、親友。小さな家族みたいな感じなんだ」。
2016年9月 リオデジャネイロパラリンピックよりバット選手(中央)
結束の固い“家族”の快進撃はその後も続き、2016年のリオパラリンピックでは、宿敵アメリカを2度の延長の末、1トライ差で下した(59−58)。史上初、パラリンピック2大会制覇を成し遂げた。
バット選手が13歳で代表入りし、経験とともに進化し続ける中で、オーストラリアは、国際規模の大会で表彰台の常連国となり、不動の世界No.1となる。
■2018年 母国開催の世界選手権 〜忘れられない一戦〜
2018年8月 車いすラグビー世界選手権 開会式
故郷ニューサウスウェールズ州で開催される世界選手権に、バット選手は特別な思い入れがあった。どんな時も味方で、彼の活躍を誰よりも喜んでいた祖父が大会直前にこの世を去った。しかし、悲しんでいる暇はなかった。代表チームのキャプテンに初めて任命されたのだ。
大好きな祖父のため、悲しみに暮れている家族のため、自分を“世界最強”に育ててくれた国のためにも、キャプテンとして、母国でチャンピオンになりたい。「自分の国のために金メダルを取るというのは、何にも変えがたい感情がある」
オーストラリアは、安定感のあるスピードと戦略的な試合で着実に勝ち上がった。そして迎えた決勝。相手は、直前のパラリンピックで銅メダルの日本。「ただただ勝ちたい。キャプテンとして、世界大会であのトロフィーを掲げたい」並々ならぬ思いでその日を迎えた。
2018年8月 車いすラグビー 世界選手権 決勝
両者は第一ピリオドから激しくぶつかり合った。体育館中に重機がコンクリートにぶつかったような、重く大きな音が響き渡る。体当たりの勢いで選手が転倒し、パンクをする回数が増えてゆく。トライを取っては取り返しのシーソーゲームは、オーストラリアがわずか1トライリードした形で第二ピリオドへ。
「第二ピリオドは衝撃的だった。日本が5ポイントリードし、自分たちの今までの競技人生の中で最悪のピリオドの一つだった」バット選手は、前日に行われた準決勝のイギリス戦でもフル出場をした上、体調も優れなかった。「キャプテンとしてハーフタイムに入るのがとてもつらかった。味方には、“まだ勝てる”と鼓舞したが、頭の中では世界トップレベルの日本に5ポイント差で、どう巻き返せるんだと」
しかし、「どうしてもチャンピオンになりたい」。会場には割れんばかりのホームの声援が響き渡る。バット選手は持ち得る全ての力を込め、ラグ車を走らせ、トライにつなげた。その奮闘もあり、大差を巻き返して、一時は2トライ差と逆転したが、日本もすぐに追いつく。44−45と日本にリードを許したまま最終ピリオドへ。
地元での世界一を目指すオーストラリア。初めての世界一を目指す日本。互いに一歩も譲らず、61-62。
残り時間5秒8。トライが決まれば、同点で延長戦の状況で、お互いタイムアウトは使い切っていた。その時、ボールはバット選手の手の中にあった。「池崎(大輔選手)を負かすスピードがあると思っていたが、残念ながら全てを消耗し尽くし、負かしきれなくてパスを出した」このパスを日本のキャプテン、池透暢選手に阻まれ、ボールはコートの外へ。ノーサイドとなった。
「キャプテンになって初めての大きな大会だった。予選ではいい働きだったが、決勝では残念ながら何もできなかった。チームのために何もできず、ある意味チームを失望させてしまった」負けた事実よりも負け方が悔しかった。「チームとしても、僕自身も、もっといい戦いができると知っているだけに、あんなにひどいプレーをして負けたことがなによりつらかった」この試合オーストラリアは13のターンオーバー(攻守交代)を日本に許した。「あんなエラーを、しかも地元の観衆の前でしてしまったことがつらかった」
特別な思いで挑んだ母国での世界選手権。あと一歩のところで届かなかったチャンピオンの栄冠。競技人生で初めて味わったあまりにも大きな“一敗”に、車いすラグビー自体から距離を置いた。
■初めて味わう挫折 〜どん底から目指す次なる目標〜
その試合からおよそ3か月後、バット選手を訪ねるとまだ気持ちの整理がついていない様子は一目瞭然だった。「年間通じてずっとトレーニングをしていたので、この数か月はスポーツから離れようとしていた。そういう生活を送ることも必要と思って」定期の休暇以外で初めて休みをとった。「トレーニングや大会に自制し続けているような感じもあったので、ただやりたいことをやりたいようにした」
バット選手が車いすラグビーに出会った日から、ずっと誰よりも近くで成長を見守り続けてきたダバリーヘッドコーチは、そんな彼の気持ちに気づいていた。「『祖父のためにも、キャプテンとして、母国でチャンピオンになる』と特別な思いを持って挑んだが、結果は準優勝。いまだにチームや国、支えてくれた家族や友人を失望させたと責任を感じている節があり、精神的にも肉体的にも完全には吹っ切れていない様子だ」
失意のどん底にいたバット選手を再び奮い立たせたのは、他でもなく次なる目標だった。「私たちはパラリンピックを2度制したチャンピオン。この東京の大会は、最も大変になるだろうとわかっているが、挑戦は受けて立つ。金メダルを首にかけるために、トレーニングや大会で必要なことは、なんでもする」
そしてその影には、家族の存在があった。「家族はパラリンピックで戦う僕の姿をすごく観たがっている。残念ながら、リオで優勝を果した時には呼んでいなかったから、家族を前に来年東京で、金メダルを守ることは、僕にとってとても大きな意味がある。彼らが見守っているというのは全力で戦う糧になるから、ディフェンディングチャンピオンになることを実現したい」
■縁深い日本でのパラリンピック 〜選手団キャプテンとして挑む東京2020への思い〜
2019 車いすラグビー ワールドチャレンジ 決勝
去年末、オーストラリアパラリンピック委員会は、選手団の共同キャプテン2人を正式発表し、バット選手が選ばれた。
その理由は外でもない、彼の“キャプテンシー”にある。バット選手は、IPC(国際パラリンピック委員会)の公式ホームページで、競技をする上での自身のゴールを「チームのために、自分のなりうるベストでいる事」と書いた。強靭なフィジカルやスピードの秘訣を聞かれても、いつも口にするのは仲間や国を思う気持ちだ。「チームや国のためにベストを尽くすだけ。そのために“最強の選手”になる必要があるのであれば、そうなるだけだ」
そんなバット選手の競技人生と日本は不思議な深い縁がある。彼のキャリアの節目に日本は必ずと言っていいほど関わっているのだ。彼が初めて代表に選ばれ、参加したオセアニア・ゾーン選手権の開催国は日本だった。競技人生の中で忘れられぬ敗戦の対戦相手も日本。そして、代表として300試合という偉業達成も、2019年に日本で開催された『車いすラグビーワールドチャレンジ2019』の最中だった。
「日本と僕の相性がいいのかな?文化も国も大好きだから。活動の始まりがここで、300試合目もここで迎えることができて嬉しい。僕の活動の終わりも来年の東京になるかも」
13歳で代表に選出され、競技歴は今年で18年を迎えた。人生のほとんどの時間をこの競技にかけ、注いできた。競技人生の終わりを見据える上で、バット選手は最高の締めくくりを考えている。
「(2018年の世界選手権のリベンジとして)日本を“ホーム”で倒し、金メダルを首にかけ引退したい。3回連続で金メダルを獲得し、良い形で引退する。これ以上に素晴らしいことはない」
数か月後に始まる2020年東京パラリンピック。車いすラグビー界のスーパースターは、選手生活の集大成のつもりでこの大会に挑む。チームと共に前人未到のパラリンピック3大会連続制覇を目指して。
生年月日:1989年5月22日
出身地:豪・ニューサウスウェールズ州
身長:125cm
体重:73キロ
競技種目:車いすラグビー
障害種別:四肢欠損
持ち点:3.5
ジャージ番号:3
代表歴:16年(車いすラグビーワールドチャレンジ2019中に300試合達成)
国際大会デビュー:2003年
車いすラグビーとの出逢い:12歳の時、オーストラリアのヘッドコーチであるブラッド・ダバリー監督が学校に来て、車いすラグビーのデモンストレーションイベントをした事がきっかけとなり、本格的にトレーニングを開始。
経歴:
パラリンピック 2016年リオ金メダル、2012年ロンドン金メダル、2008年北京銀メダル、2004年アテネ5位
世界選手権 2018年銀メダル、2014年金メダル、2010年銀メダル、2002年銅メダル
好きなことわざ: 為せば成る
バット選手に影響を与えた祖父は、様々な行動や、アクティビティーを通じて、「ありのままを受け入れること」を彼に伝え続けた。そのため、幼いころからいつも何かを始めるときには「自分にはできない。ではなく、どうしたらできるか」を考えるようになった。
趣味:バイクで荒野を走る事、ジェットスキー、家族と同じ時間を過ごす事
2019年11月 オーストラリアパラリンピックのキャプテンに選出された車いすテニスのDaniela Di Toro選手(右)とともに。バット選手は今回、初めてキャプテンに選出された
ルーチン~バット選手が大切にしていること
1.「ラッキーチャーム(お守り)」を新調すること。
移動用の車いすには乳幼児サイズほどの小さな靴がぶら下がっていて、びっしりと何かが書き込まれている。
「これは、私にとっての“幸運の靴”。ここに書いた“ハードヤカ(HARD YAKKA)”という単語は、一生懸命働く者、一生懸命取り組むという意味で、オーストラリア人が使う造語なんだ。靴底には子どもたちの名前や“成せばなる”という言葉も書いてある」
バット選手は、遠征や合宿、大会と家族と離れている時間も多いが、国際大会ではこうして家族と共に戦いに挑んでいるのだ。「(勝利に向かって)走り続けるために。疲れたら、家にいる子どもたちのことを考える」。
2.試合中、全力疾走で追った相手選手がトライを決めたり、ターンオーバーを誘発したりした選手に対し、バット選手がアイコンタクトをし、拍手を送り、片手を高々と挙げるシーンがよく観られる。これは彼お決まりの、「素晴らしいプレーだ」と称える時のルーチン。
“ノーサイドの精神”はラグビーの魅力の一つだが、試合中にもいいプレーがあれば、状況にかかわらず相手を素直に称える。スポーツで頂上を目指し、戦っている同志への敬意が垣間見える瞬間だ。
3.世界屈指のフィジカルとスピードを誇るバット選手に、食のルーチンに関する質問をすると「体力づくりの元となるようなこれといった食べものは全くない。普通の食事。野菜を育てるのが好きで、健康的な食事を心がけている」と語る。ただ、そこで分かったのは、家庭菜園が「趣味」ということ。自分で育てた野菜を食べることが“食のルーチン”であるそうだ。
(文:ミツキニス恵美 オーストラリア・ビクトリア州在住)
■関連記事:チャック・アオキ 〜車いすラグビー大国アメリカの絶対的エース〜(2019/12/24)
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March 11, 2020 at 04:14PM
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